正直、大した期待はしていなかった。
誘ってくれたのは使用人の幸田と木崎。霞流は不在。そもそも、自分たちだけでは寂しいからと言われたのだ。たとえ場所が豪邸であろうとも、質素な食事会とでも考えていればいいのだろうと思っていた。のに…
「あの」
作業の邪魔にならぬよう、美鶴は努めて唇を動かさないように声を出す。
「なぁに?」
相手は返事こそすれ、視線はこちらを見てはいない。一心に鏡を凝視しながら細々と手先を動かしている。
そんな相手にため息が出そうになるのをなんとか押さえ込み、美鶴は必死に唇の間から声を出した。
「あの、どうしてここに井芹さんが?」
美容師の井芹は、そんな美鶴の言葉にも一向に手を休める素振りは見せず、テキパキと作業をこなしていく。
「井芹さんって、今日はお休みですか?」
「まさかぁ。昼間は名古屋の方でイベントのお仕事してきたんだからぁ」
思い出すだけでもうんざりといった表情。
「クリスマスイベントに出る新人タレントの担当だったんだけどさぁ、もうこれが我侭でワガママで、ホンット、仕事でなかったら一発殴ってた」
「え? 井芹さんって、タレントさんの化粧とかもするんですかっ!」
「まぁバイトみたいなもんかな。決まったお客だけを相手にしてたら腕が鈍るからねぇ。店ん中で客待ってるだけじゃ時間の無駄だし。ボランティアとかにも参加するけど、こういう仕事も結構刺激になるよ」
嬉しそうに肩を竦める井芹と、鏡越しに視線が合う。
楽しそうだな。井芹さん、本当にこの仕事が好きなんだ。
その姿に、なぜだか虚しさのようなものを感じた。
自分は、これほどまでに熱中できる何かなど、持ち合わせてはいない。あれば進路などには悩まないだろう。
「じゃあ、有名人とかにも会えたりするんですか?」
塞ぎかけた気持ちを無理やり吹き飛ばすつもりで口を開くと、思いのほか声が大きくなってしまった。
「たまにね。何? 誰か会いたい人とかいるの?」
「い、いえ、別に」
「うーん、私、コネとかツテとかって人間関係あんまり敏くないから、力にはなれないと思うな」
「いえ、本当にそういうつもりでは」
必死で誤解を解こうと試みるが、果たしてどこまで成功したのだろうか?
「有名人って、自分をいかに美しく魅せるかに命掛けてるからね。意見もビシビシ言ってくるから大変だよ。まぁ、それだけプロ意識が強いって事だし、その方がこっちも張り合いあるけどね。でも今日の娘はまいったなぁ。ありゃ、かなり過保護に扱われてるよ」
思い出しながら肩を竦める。
「事務所が一番力入れてる子らしくってさぁ、事務所の存続掛かってるとかなんとかで、かなりいろいろ手を掛けてもらってるみたいなんだよね。そんでさ、その子の方はさ、自分次第で事務所を動かせる気でいるみたいだからさ、もう高飛車もいいところ。自分の一言で事務所の人間が右往左往してるのを見て愉しんでるんだから。私にもあれこれ無理難題を吹っかけてきてさぁ、ホント、やんなる。その点、君みたいな子は楽しめるな。遣り甲斐あるし」
「へ?」
「変身させ甲斐あるって言うの? どんな風にしてやろうかって、もう興奮しちゃう。幸田さんから話を受けた時からあれこれ考えてきたんだからねぇ」
言いながら腕に力瘤を作られると、こちらとしては逆に困ってしまう。
「あの、ひょっとして井芹さんって、私の為だけにここに来たんですか?」
「え? そうよ」
キョトンと目を丸くする井芹。
「幸田さんに頼まれたの。君が来るから目一杯お世話してねって」
「目一杯は遠慮しときます」
「あぁら、遠慮なんて若者らしくもない」
「でも、私は別に」
「はいはい、おしゃべりはそこまで。口動かさないでね」
言われながら顎を軽く捕らえられ、仕方なく口を噤む。
うぅ、幸田さんったら、こんな事、一言も言わなかったじゃないっ!
心内で毒づくも、当の幸田は別室だ。
霞流邸に到着した美鶴を快く迎えてくれた幸田だが、今思えば、妙に含みのある笑顔であったのかもしれない。
案内されるがままに入った部屋で待ち構えていたのは、両手を腰に当て、半臨戦態勢の井芹。
「じゃあ、あとはお願いしますね」
「はいはーいっ!」
などといった二人にしか通じない会話を交わして幸田は部屋を去り、残されて呆気に取られる美鶴に向かって井芹が差し出したのは手触りも滑らかな、ドレス?
「やったー、ピッタリじゃん」
戸惑う美鶴を半分強制的に着替えさせ、その変貌振りに手を叩いて喜ぶ。
「あ、あの、井芹さん、これは?」
「知り合いからのお下がりだけど、うんうん、似合うよ。やっぱ私ってセンスあるな」
自画自賛しているところに盆を持った幸田が入ってきて、これまた美鶴を見てはニッコリ微笑む。
「やっぱり似合いますね。さすが井芹様です」
「でっしょっ!」
「あの、こ、幸田さん、これは?」
戸惑うというよりも、慄くような美鶴の態度。幸田はいたって涼しい顔。
「せっかくのイブですもの。これくらいのお洒落は基本ですわ」
「き、ほん?」
「はい」
「で、でも、これって」
「あぁ ご心配はいりません。すべてこちらで持たせていただきますから。木崎さんにお許しを頂いていますので、何も問題はありません」
持たせてって、それはつまりお金の事を言っているのだろうか?
「あの、って言うか、そんな事よりも、私こんな話は一言も」
まだ幾分混乱している様子の美鶴に幸田はクスッと笑い、肩を竦めた。
「あらあら、恥ずかしがる事はありません。本当によくお似合いですよ」
「い、いや、似合ってるとかって言うよりも、私、こんな格好した事もないので、その、こんな服を着て食事とかって、無理です」
胸元にレースを配ったノースリーブのワンピースが、。膝の上でヒラリと揺れる。
制服よりもさらに短いぞ。
ベージュを基調とした肌触りの良い生地に黒のレースが華やかさを演出する。ウェストを引き締めるラインにスパンコールがチカチカと瞬く。裾で揺れるピンクのレースが黒色の合間からヒラヒラと見え隠れして、まるで美鶴の態度を悪戯っぽく笑っているかのよう。
「無理ですよぉ」
懇願するような美鶴の視線に、幸田は少し寂しそうな表情を見せた。
「ただでさえ使用人だけの寂しいイブなんです。慎二様はいつお帰りになるともわからず、栄一郎様はお部屋からはお出になる事はないでしょう。そんなこの屋敷に、せっかく来てくださったお客様です。できる限りのお持て成しはさせて頂きたいのです」
「あの、でも本当は母が」
そうだ、幸田が期待していたのは自分ではなく母の詩織だ。
だが、そんな美鶴の言葉を幸田はやんわりと遮る。
「いいえ、私は本当に美鶴様がいらしてくださって嬉しく思うのです。本当ですよ」
優しく口にするその声に、偽りがあるとは思えない。
本当に、本当に自分は歓迎されいるのだろうか? そう思って、良いのだろうか?
信じてはいけないという、いつもの猜疑心に揺れながら、それでも目の前で優しく笑う幸田を見ていると、疑ったり好意を拒否したりするのがひどく幼稚じみているようで、それ以上は何も言えなかった。
楽しいイブって、ひょっとして幸田さん、こうやって私にあれこれと世話を焼いて楽しむって事だったんじゃないの? だとしたら幸田さん、使用人は天職だよ。
なんとなくハメられたような気がしないでもないが、持て成してもらっている身で文句など言えまい。
それにしても、本当に似合ってるのかな?
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